日の出町の歴史
明治22年(1889年)東海道線が開通したことにより、地域の交通が一新され、それまで田畑地であった日の出町の発展を招来したものとなりました。経済的地盤と物産の集積地としての役割も大きく、榛南地方の物資の輸送を目的とし、大正2年(1913年)藤相鉄道が開通しました。
藤枝新駅(昭和2年)
朝の藤枝駅
人力車、荷車、外套の人々、大正時代の駅前広場の空気を伝えてくれる
志太榛原の交通経済の要衝として藤相鉄道株式会社を始め、銀行会社が軒を並べ、特に日の出町通りには、志運送店、服部精麦、青島醤油等設立され、駅前通りと共に、その賑わいは大変なものでした。
当時近郊の世帯持ち職人さんの年期明けで独立開業した人々、また焼津藤枝等の大きい一流店の支店出張所で大正の始め、通りは大体家並みが揃っていました。
業種も実に多彩で、明治大正時代としては先端的ハイカラ商売と言うべき洋品店、自転車屋、食肉店、パン屋、カフェ等が早くから営業していました。これら多数多種の店が一時期全部揃っていたと言う事では勿論ありませんが、入れ変わり立ち変わり店が競い合っていました。
日の出町へ行けば何でも間に合うと言われ、青島地区一番の実力と信用を誇っていました。
日の出町は藤枝駅の玄関口として、旧藤枝町への街道として汽車通いの通勤サラリーマン、学生、生徒と藤枝農学校、志太中学、藤枝高女の通学路でもあり、大正の始め女学生の和服袴革靴姿の自転車通いはハイカラで注目を浴びました。
産業道路としても農産物、肥料、飼料の運搬、夏の志太梨生産の最盛期には南部方面の生産家の荷車リヤカーの列が出来ていました。
開化の日の出町(大正時代)
日の出町は近代における田沼街道の起点で、大井川左岸の相川との間を走る馬車の発着所でもあった
志運送
後に駿遠運送となる
子供の頃には主に「横町」と呼ばれ、その後「横町」「日の出町」と併称され、いつの間に「日之出町」と呼ばれるようになりました。
大正11年頃の日の出町
大正11年(1922年)、町制施行、青島町発足。
昭和11年(1936年)、道路の幅員を4.5mから9mに拡張。
昭和18年頃の日の出町
昭和29年(1954年)藤枝市誕生。
田園都市から商工業のバランスのとれた街づくりへ各町内を単位に区制を発足した藤枝市は、昭和34年(1959年)度より区の数を少なくし、日の出、富士見、前島東の3つの区を一本化して青島3区としました。各団体等の会合も多く、町内役員相談の結果、地域の文化の殿堂として公民館を建設し、大いに地域の為に利用されてきました。
昭和45年(1970年)、開業以来、駿遠鉄道は56年間経済的発展に貢献してきましたが、車の発展に伴いバス代行により、蛍の光に送られ駿遠鉄道が廃止となりました。
昭和55年(1980年)、日の出町内でも駅前区画整理事業が終わり、全てが新しく店舗も改装され、舗道にも植樹され、明るい文化的な商店街に一新されました。
しかし、近年商業圏の郊外拡散化または、駅南口の開発により、従来の商店街機能を喪失しつつあります。
昭和43年頃の日の出町
区画整理前
昭和55年頃の日の出町
区画整理後
年 表
1889年 明治22年 東海道線藤枝駅開設
1913年 大正2年 静岡鉄道 藤相線開通
1914年 大正3年 静岡鉄道 中遠線開通
1922年 大正11年 町制が施行され青島町となる
1936年 昭和11年 道路の幅員を4.5mから9mに拡張
1948年 昭和23年 静岡鉄道 駿遠線全通
1954年 昭和29年 市制が施行され藤枝市となる
(藤枝・青島・葉梨・西益津・高洲・大洲が合併)
1959年 昭和34年 日の出町公民館を建設
1964年 昭和39年 静岡鉄道 堀野新田~新三俣間が廃止
1968年 昭和43年 駅前区画整理事業始まり
1970年 昭和45年 静岡鉄道廃止
1980年 昭和55年 駅前区画整理事業終わり、日の出町公民館落成
(日の出町商店街の在住者の手記より抜粋)